忘れることができるのは、ヒトに備わる残酷ですが素晴らしい能力です。
一見、よくないことかもしれません。でも、生きるために、次の一歩を進めるために、ある意味必要な能力だと思います。そして、教訓は強烈に残します。
完全に忘れることは難しいです。たまに、ふと思い出したり。あるきっかけでフラッシュバックしたり。
でもいつの日か、3年、5年、10年と経つと無意識に忘れることができるようになれます。たとえいま、どれだけ苦しくても。忘れることなんて絶対にできないと思っていても。
いま、苦しんでる方にも、いつかそういう日が来ます。
母の死
私は母が大好きでした。
家族の中心で、太陽のように明るい存在でした。
母のこと。幸せな家庭
母は、自分のことより、こどものことを優先してくれました。
何から何まで面倒を見てもらいました。
宿題もつきっきりで見てもらいました。
賞を取ると褒められたので、小学生の頃から、たくさんの賞を取ってきました。
ほとんどが母の支援の賜物でした。
母は、いつも笑顔でテキパキと家事をこなし、
家の中はいつも片付いていてキレイで、
決まった時間に食事が出て、お風呂に入り、
いつも同じような時間に寝る日々でした。
(これって本当にすごいことなんです。私の育児はそんなうまく回せない)
幸せな家庭で、居心地がよかったです。
母の自死(病死)
私が社会人1年目の頃、不幸がつづきました。
父が自動車のもらい事故をしてしばらく働けなくなり、
弟も交通事故にあい、一時入院したり。
私は怪我等はありませんでしたが、初仕事がうまくいかなかったりと
皆が余裕を失っていきました。
しばらくして母は、うつ症状で病院に通うようになりました。
「心の病」について今ほど社会に浸透しておらず、どうしたらよくなるのか悩みに悩みました。
(いま思えば、更年期障害もあったかと思います。病院も変えるべきだったかもしれません。)
ある日の早朝4:45頃。ささやくように、ふり絞るように、私を呼ぶ声で目が覚めました。
どうしよう… という声も。
いつもと違う母の姿に違和感。
すぐに弟を起こして応急手当をさせました。
※このとき、1人でやらなかったことを後悔します。
私はすぐに119番をして病院について行きました。
即、集中治療室へ。
希望的な話が出たりもしましたが、残念ながら2、3か月で、亡くなってしまいました。
「どうしよう…」と言ったことから、本当は、最期の気持ちは、生きたかったんだと思います。
その後のこと
残された家族で話し合いました。
これは心の病から始まった「病死」なんだと。
誰かを責めたり、
自分を責めたり、
原因を追究したり考えないようにしようと。
頭ではわかりますが、やってはいけないと分かっていても、
…私は全部できませんでした。
幸せで仲がよかった家庭は崩壊しました。
私は、いろいろ耐え切れず退職してしまいました。
父は仕事を続けてましたが、収入がガタ落ちしていました。
電気、ガスが止まるようになったので、私が払うようにしました。
家の中は散らかり放題。それでも食べなければいけないので、食材宅配サービスを使い、がんばって料理しました。
母の死を乗り越える。囚われた自分を再起するために
母を輝かせるにはどうしたらいいか考えました。このままでは「かわいそうな人」になってしまいます。
亡くなった母を輝かせるのは、残された者しかいない、私が母を輝かせるんだと考えました。
無気力ながらも職業安定所の職業訓練に通い、手に職を付けて再就職しました。安定した、人に誇れる仕事ができました。
資格をたくさんとりました。自分の時間と労力を何かに集中させたかったのです。
小学生の頃、賞をとったときに心から喜んで褒めてくれた母がいたらなあと思いながら。
その後、つらいときに支えてくれた方と結婚し、 家を買い、2人の子をもうけ、普通の幸せを手にしつつあります。
今では父、兄弟とも仲良くやってます。
つらい経験は、1年、2年、3年、5年、10年と経過するうちに段々と薄くなります。
教訓は、強く残ります。
昔は、必ず早朝4時45分頃、目を覚ましていました。
だんだん頻度は減ってきましたが、今でも早朝のその時間帯に目が覚めると、当時の記憶や、呼びかけの声を思い出します。
ただし、違うのは、幸せだった頃や教訓を併せて思い出します。
母の死を乗り越える まとめ
忘れる というヒトに備わる能力は、残酷で、素敵な能力です。
次の一歩が踏み出せます。
その一歩は、皆が、社会が、自分自身が望んでいることだと思います。
あれから10年以上の月日が流れ、そろそろ整理できそうだったので
ちょっと書いてみようと思いました。
令和元年7月に、京都アニメーション放火事件がありましたが、被害者ならびに被害者家族は、大変苦しんでいると思います。微力ながら支援しています。