「忘れる」というヒトに備わる、残酷な、素敵な能力 次の一歩を踏み出すために必要な力。母の自死を乗り越えるために

生活全般
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忘れることができるのは、ヒトの素晴らしい能力です。

たまに、ふと思い出したり。あるきっかけでフラッシュバックしたり。完全に忘れることはできないかもしれません。

でもいつか必ず無意識に忘れることができます。たとえいま、どれだけ苦しくても。幸せでも。

ヒトに備わる残酷な、素敵な能力です。

ダメなことかもしれません。でも、囚われの身から、次の一歩を進めるために、どうしても必要なのです。

母の死

私は母が大好きでした。

母のこと

自分のことより、こどものことを優先してくれて、何から何まで面倒を見てもらいました。宿題もつきっきりで見てもらった記憶があります。賞を取ると褒められたので、小学生の頃から、たくさんの賞を取ってきました。ほとんどが母の支援の賜物でしたが。

いつも笑顔でテキパキと家事をこなし、家の中はキレイで、決まった時間に食事が出て、お風呂に入り、いつも同じような時間に寝る日々でした。(私の育児はそんなうまく回せない)

母の自死(病死)

私が24歳の頃、今から10年以上前のことです。母は、うつ症状で病院に通っていました。当時は父の交通事故(もらい事故)があったり、私は希望どおりにいかなかった就職先に嫌気が差していたりと、何かと不安定な状況が続いていました。

当時は「心の病」について今ほど社会に浸透しておらず、私もよく分かっていませんでした。

ある日の早朝4:45頃。ささやくように、ふり絞るように、私を呼ぶ声で目が覚めました。どうしよう… という声も。

いつもと違う母の姿に違和感。

すぐに弟を起こして応急手当をさせました。

 ※このとき、弟は、まだ高校生。とても残酷なことをさせたと後悔します。

私はすぐに119番をして病院について行きました。

即日、集中治療室へ。

希望的な話が出たりもしましたが、残念ながら2、3か月で、亡くなってしまいました。

※ごめんなさい、この辺りは10年以上経過してもうまく書けません…。

「どうしよう…」と言ったことから、本当は、最期の気持ちは、生きたかったんだと思います。

家族で話し合いました。これは心の病から始まった「病死」なんだと思うようにしました。
誰かを責めたり、自分を責めたり、他の原因を考えないようにしようと。
それでも、やってはいけないと分かっていたけど、 …全部できませんでした。

令和元年7月に、京都アニメーション放火事件がありましたが、被害者ならびに被害者家族は、大変苦しんでいると思います。微力ながら支援しています。

その後のこと

幸せで仲がよかった家庭は崩壊しました。

私は、いろいろ耐え切れず退職してしまいました。無気力になり、ネトゲに、はまりました。
父は仕事を続けましたが、収入がガタ落ちしていました。

電気、ガスが止まるようになったので、私が払うようにしました。家の中は散らかり放題。それでも食べなければいけないので、食材宅配サービスを使い、がんばって料理しました。

匿名のネットでも書けないようなひどいこともありました。(犯罪ではないです)

トラウマに囚われた自分を再起するために

母を輝かせるにはどうしたらいいか考えました。このままでは「かわいそうな人」になってしまいます。

亡くなった母を輝かせるのは、残された者しかいない、私が母を輝かせるんだと考えました。

無気力ながらも職業安定所の職業訓練に通い、手に職を付けて再就職しました。安定した、人に誇れる仕事ができました。

資格をたくさんとりました。自分の時間と労力を何かに集中させたかったのです。
小学生の頃、賞をとったときに心から喜んで褒めてくれた母がいたらなあと思いながら。「よく頑張ったね!」と褒められたいのです。

その後、つらいときに支えてくれた方と結婚し、 家を買い、2人の子をもうけ、普通の幸せを手にしつつあります。父、兄弟とも仲良くやってます。

つらい経験は、1年、2年、3年、5年、10年、15年と経過するうちに段々と薄くなります。

教訓は、強く残ります。

昔は、必ず早朝4時45分頃、目を覚ましていました。だんだん頻度は減ってきましたが、今でも早朝のその時間帯に目が覚めると、当時の記憶や、呼びかけの声を思い出しますが、幸せだった頃や教訓を併せて思い出します。

まとめ

忘れる というヒトに備わる能力は、残酷で、素敵な能力です。

次の一歩が踏み出せます。

その一歩は、皆が、社会が、自分自身が望んでいることだと思います。

今日、4時45分頃、目が覚めたことと、あれから10年以上の月日が流れていたので、ちょっと書いてみようと思いました。

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